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2004 年
11 月
21 日 最高裁の決定に対し、知事は自分の信念を覆す必要はない 〜さわやか早苗日記326〜 |
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最高裁が田中知事の上告を却下し、泰阜村の選挙人名簿登録を誤りとする長野地裁の判決が確定したため、知事が自らの住所を泰阜村とした決定も覆され、泰阜村選管は知事を選挙人名簿から抹消し、村にある知事の住民票も削除される。しかし、これは3月1日までの住所が長野市だとの確定であり、現在知事はマンションを長野市に借りておらず、泰阜村村長は、「知事が居住の意志があり、近所付き合いも出来るなら、今後もどうぞ」と言っている。 私には、素朴な疑問が残った。知事は泰阜村に税金をおさめたいと住民票を移した(2/5日記参照)。それが何故いけないのだろうか? そもそも、長野市長や、長野市民5人が住民票や選挙人名簿登録が長野市にあると訴えなければこのようなことにはならなかった。田中康夫が知事でなかったら、訴えはしなかっただろう。その証拠に、訴えた市民5人は判決後の記者会見で「今後は個人的問題にとらわれずに、県政に専念して欲しい」と言った。田中知事だから訴えられたのだ。 知事は罪を犯したわけでもなく、例えば集団で住民票を移し村の選挙を混乱させようという、悪意があったわけでもない。好きな村に住民票を移し、忙しくてなかなか帰れないかもしれないが、時々は帰って暮らして、何処がいけないのだろう? マスコミの論調には、知事の住民票移動を、私人ならよいが、公人だからいけないとある。これも、私には素朴な疑問がある。 広辞苑によると、公人とは「1.公職にある人」「2.公の立場から見た個人」とある。1で言えば公務員もそうである。2で言えば、すべての人は公人と言える。人が社会の中で生きるときは、常に私人と公人の間を行き来している。家の中でステテコでいても、客がくればズボンをあわててはいて出て行く。そうしなければいけないと言う決まりはないが、常識の範囲で家と外を分けている。同じようにどの人も、私人と公人を、個人の中で常識的に考え分けている。 人が社会の中で、してはいけない行為だと怒られたり、罰せられたりするのは、公の中で生きているにもかかわらず、他者を傷付けたり被害を与えたりしたときだ。田中知事はそのようなことをしたのだろうか? 更に、知事が公の立場にいるのに混乱を来すようなことをしたという批判がある。これもおかしい。 だって、先に書いたように、長野市長や5人の市民が訴えなければ混乱は起きず、また、訴えた人は知事だから訴えたに過ぎない。訴える権利も保障されてはいるが、ハッキリ言って、訴えたのは知事に対する嫌がらせ、混乱させているのは訴えた方だ。 以上、知事が裁判に負けたからと言って、悪いわけではまったくない。市民が権利を主張し、敗訴している例は山ほどある。大方の敗訴の理由は、行政の都合や作為である。大抵、国は大きい方に付き、個人の権利など見向きもしないからだ。知事は判決に従っても、個人としての自分の信念を覆す必要は全くない。 これに関しては、川は川らしくと訴え、敗訴した「川と湖の原告団」の一人であるあおぞら事務局の藤井さんの意見を参考にどうぞ(下クリック)。 私が知事に望むのは、国が見向きもしない小さいものの味方を、もっともっとして欲しいということ。2度目に田中康夫さんに会った時に「この人は、長いものに撒かれず、小さな物の味方が出来る人」と感じたから、こういう人が知事になって欲しいと思った。 山口村のことも、知事は長野県に残りたい人の想い(村民の2/5は残りたい人がいる)を裏切らない。長野県の知事なのだから長野県に残りたい人を、最後まで守って当然と思う。 「川と湖の原告団」の一人の意見 | ||
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